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 弱者系

5/17(土)「お金をかけずに繁盛店セミナー」
あの有名人も!



人生の成功は、夢×戦略×感謝しかない!(某誌)



 初めまして。(株)インタークロスの栢野克己(かやのかつみ)と申します。よくいる口先だけの零細企業コンサルタントです(笑)。拙著「小さな会社★儲けのルール」&「逆転バカ社長:天職発見」が、ビジネス書としてはマグレのベストセラーで12万部売れたので、福岡を拠点に全国の商工会などで年間100回ほど講演
しています。

 また、毎月50名〜100名参加のセミナー交流会「九州ベンチャー大学
」(詳細は検索)や、月曜朝6時半「やる気会」・火曜朝7時「早朝マーケティング研究会
」・「個別相談会」を'92年より主宰。



 以上、中小零細企業の経営事例+人生逆転事例の勉強会を1000回以上やってきたので、事例には詳しくなりました。その一部を公開したネット日記のブログ「人生は逆転できる!」も、おかげさまで人気ブログランキングでたまにジャンル第1位にしていただいています。



■私自身も失敗の連続



 今回は失敗から学ぶというテーマを頂きましたが、実は私自身がまさに失敗の人生。 高校は裏口入学で、当時、偏差値の低かった立命館大学は正規に卒業しましたが、新卒入社のヤマハ発動機(営業)を9ヶ月でノイローゼ退社。次のバイト・契約社員で入ったリクルート社は3年弱で正社員試験落第。3社目のIBMリースも、2年半で仕事失敗+ウツ+婚約破棄+自殺未遂で退社しました。



 東京へ逃げ、半年失業後の4社目のチラシポスティングのFC本部へ転職。しかし、そこは問題FC本部で2年で退社。もはや「同級生に勝つには独立しかない」と決意し、様々なセミナーや交流会に参加後に「無料職業相談業・人材紹介業」で起業。しかし、半年で金がなくなり、出版社のビジネス社でテープ起こしのバイトをするも先の人生が見えません。



 そんな92年、実家が他人の連帯保証1億円かぶり博多へUターン。7度目の転職で広告代理店へ。同時にビジネス交流会「九州ベンチャー大学」立ち上げ。 95年、借金返済のため2度目の起業。97年完済するも実家失い親は自殺。長期のウツになり、事業もうまく行かず、心療内科へ5回通院しました。同時に様々な勉強会や人に会い、2002年に一大決心で書いた冒頭の本がまさかのヒット。



 以来、講演に呼ばれ、相談アドバイス依頼も毎日もらい、お世辞が大半だとはわかってますが「大変役立った。ありがとう!」「救われました!」の声やメールを毎日もらい、今も本の執筆依頼が7冊も。個人的には夢のような、大満足の人生を送らせていただいています。

 

■失敗は必要必然



 失敗はしない方がいいですが、統計的には失敗は必然です。一般に、会社・事業は、始めて10年後に残るのは2割。20年後には1割。30年持つのは5%もないと言われます。以前、「企業の寿命は30年」と日経ビジネスが唱えてましたが、あれは大企業のこと。皆さんも身近な例で知っているように、中小零細企業・商店では、場所によって1年で半数以上が消えることもざらですね。10年〜30年単位で半数以上が廃業や倒産するわけですから、仕事や事業の失敗や挫折というのは、極めて当たり前のことですね。

 

 でも、普通の人はあまり知らない。本人も成功したことは話しますが、失敗はあまり話さない。本もマスコミもスポンサー等の手前もあり、大型倒産以外は記事にしませんね。だから、私がサラリーマン時代からダメ転職を繰り返し、最初の独立は半年で廃業。2度目の独立もうまく行かない時期が長かったので、自分は人生の落伍者だと思いこんでいました。



 ところが、異業種の勉強会「九州ベンチャー大学」で招いたその時々の成功者も、過去には必ず大なり小なりの失敗がありました。



■あの「やずや」も失敗の歴史



 今や誰もが知る、福岡の自然食品通販会社「やずや」。「黒酢」や「にんにく卵黄」「養生青汁」を主力に、2007年は年商400億円を軽く超える勢いです。私が「やずや」の矢頭社長に会ったのは'93年。当時は年商15億が、わずか13年で26倍ですから、驚きましたね。



 しかし、「やずや」の業歴は、まさに失敗の歴史でした。創業者の矢頭宣男氏は、大和ハウス営業マンやボーリング場・パブスナックの支配人を経た1974年、30歳の時に夫婦で起業。しかし、FC雑誌に載っていた車のアイデア商品、ホテルへの靴磨きクリーナー、生保営業ウーマンへの粗品販売と、1年で3つの事業に失敗。奥さんが溜めていた預金を全部無くします。次ぎは結婚式と葬儀の司会業見習い。しかし、食えないので、当時流行っていたクロレラの歩合セールスを副業で始め、これが7年で年商5億に迄伸びました。1980年代半ばです。 



 しかし、仕入先の社長が女性に溺れて破綻。「やずや」も巻き込まれ、売る商品が無くなります。しかし、見栄で事業縮小せずに社員約30人を抱え続け、ついには高額羽毛布団や怪しい商材にも手を出し、最後は持ちこたえられずに事業を一旦整理。倒産は免れましたが、大幅リストラで従業員は夫婦とパート1名と降りだしに逆戻り。創業10年目のことです。



 ただ、素晴らしかったのは、リストラ時に社員一人一人に100万円の退職金を出したこと。自宅を担保に借金2200万円をしてまで。この姿勢が、のちの繁栄に繋がります。



 その後、表看板は、なんと「矢頭結婚デザイン事務所」に変更。創業時から趣味でやっていた司会業をメインとし、痛い目に遭った健康食品の販売は細々とした副業にしました。社長給与も月30万円で、両親への仕送りなどで実質は10万円に。1985年のことです。



■44歳で天職に目覚める



 雌伏の低迷期を3年ほど過ごした1988年、矢頭さんは飲み屋で横になった社長から、中小零細経営者の勉強会である「福岡県中小企業家同友会」(各都道府県にあり)に入会。その3ヶ月後の「経営計画セミナー」で、運命を変える出会いがありました。



 参加者は10数名で、メイン講師は当時、急成長していた健康食品会社の創業者であるH社長。矢頭さんは既に10数年の経営経験はありましたが、経営計画なるものを書くのは生まれて初めて。当時は結婚式の司会業をメインとしてましたが、他に何か儲かるビジネスがあるのではと、イベント業・ほか弁・ニュービジネス・・と迷っていました。



 素直にそう話したところ、H社長から「早よ、決めなね」と言われましたが、矢頭さんは当時44歳。まだ若いと思っていました。



 「事業はね。50代には完成し、60代には次の世代へ承継よ。だから、早く、何で行くか決めねばね。どうするね?」



「うーん、いろいろやりたいことがあるので、わかりません」



「ふーん。ところで、あんたは今まで何をやってきたのかね?何が得意なのかね」



 大和ハウスの営業マンを始め、転職を繰り返し、事業転換もいろいろやった。が、自分は結婚式の司会業か健康食品の販売。この2つしかないと、あらためて気づいたと。



「なら、その2つのうち、どっちかに決めないとね」。健康食品で失敗した矢頭さんは、司会業だと答えた。



「ふーん、司会業ね。その仕事は、あんたが自らやるんよね。あんたが倒れたらできんよね。なんで健康食品をやらんのか?」



「失敗もしたし、健康食品は胡散臭いし、イメージが良くないですから・・・」



「何言うか!オレは今、青汁という商品を売り出しているが、どこにどう出しても恥ずかしくない!

お前は健康食品が胡散臭いと言うが、それはお前の考えが胡散臭いからだ!



お前はもう44だ。今さらお前にできるのは、健康食品しかないじゃないか!



真っ当な健康商品を、ウソ着かずに誠実に売る。



お前にできるのは、それしかないじゃないか!



お前はそれしか、役に立たない人間じゃないか!!」 



 この時、矢頭さんの体には電流が流れたようになり、「ああ、これしかない!決まった。天職はコレだ!」と決意。家に帰って妻と抱き合って大泣きし、それまでの放浪生活を、深く詫びました。以上は矢頭宣男さんから、私が直接聞いた話しです。



■創業14年目で初めての経営計画書を作成



 そして、矢頭さんは夫婦とパート1名で第1回経営計画発表会を開催。友人知人約50名の前で、1年後に年商2億を達成することを宣言しました。当時の主力商品は明日葉という健康食品で、結果は1億8千万円と目標には届きませんでしたが、前年の6000万円に比べると3倍の大躍進。



 翌年は年商3億を達成し、次の3年は横這いでしたが、生まれ変わると決意して4年後の1992年に、初の自社オリジナル商品である「養生青汁」を商品企画。この通販が当たり、その後も多少の紆余曲折はありながらも、年商はあれよあれよと伸び、「決意」から10年後の1999年には年商62億円を達成しました。



 ところが好事魔多し。近い将来の年商100億も見えたその夏、矢頭宣男さんは突然の脳溢血で亡くなり、社内外に衝撃が走りました。まだ55歳で、長男もまだ社会人1年目の24歳。



 妻である美世子さんは、その数年前から専務として社内を任されていましたが、中小企業は創業者を失うと普通、ガタガタになります。業界新聞にも「これでやずやはもうダメだろう」と書かれ、私も当時、やずやの求人広告や会社案内を作成していたので、頻繁に出入りしてましたが、新社長になった矢頭美世子さんは、ほぼ毎日、泣いてばかりいましたね。やずや最大の危機かと思われました。



 ところが、その1年後には、なんと倍増の117億と売上は倍増。その後も年々130%成長を続け、2007年には九州でも数少ない400億企業の仲間入りを果たしました。一体何が起こったのか。



 私は1993年から「やずや」と広告の仕事でつき合うようになり、1998年から現在まで、「やずや」で毎週水曜日の朝6時半から開かれる「成功哲学」の勉強会に参加。つまり、10年以上、ほぼ毎週「やずや」に出入りしながら、成長を観察させてもらってます。



■「やずや」大逆転の秘密



 その経験を踏まえ、失敗ばかりしてきた「やずや」が、なぜ、今のような大逆転を果たすことができたのか。私なりの「やずや」成長のポイントを時系列に上げると・・・



?誠実さ。のちに仕入先の倒産に巻き込まれるものの、当初5億迄成功したクロレラの訪問販売ではウソをつかずに販売した。チラシを巻いて問い合わせがあった家に訪問して売るが、当時の業界では試供品を開けさせ、「もう返品はできない」とか、必要以上の数年分を何十万かで押し売りする業者も横行。しかし、矢頭さんはいつでも返品返金に応じ、当座に必要な量しか売らなかった。その姿勢は今も受け継がれ、真面目で正直な商品・通販姿勢を守っている。



?勉強と人脈への目覚め。44歳で決意し直し、同友会に入ってからは、猛烈に経営の勉強を始めた。逆に言うと、それまでは儲かった金でキャバレーなんかに毎週通い、本もほとんど読んでなかった。 が、同友会を中心に、異業種とのつき合いも活発化。最初の自社商品「養生青汁」のきっかけも、「他人のものを仕入れて売るより、自分が開発した商品の方が本気になれるよ」の一言で、通販が一気に伸びたのも「口に入れるモノは、口が多い方がいいね。今は九州で販売してるけど、いっそ、東京でもやってみたら?健康食品は<九州博多発>で逆に受けるはずだよ」のアドバイスから。



?経営計画書の作成と実行。先に書いたように、矢頭さんは創業14年目の44歳の時、初めて会社の未来像である経営計画書を作成。これは私の実感ですが、日本の会社の95%をも占める従業員30名以下の会社のほとんどが経営計画書を書いていない。創業以来、成り行きで来ているのがほとんど。羅針盤のない航海は難破する危険性が高いのと同様で、やはり規模が小さくとも経営計画は必須。基本理念は「深く穴を掘れ。穴の直径は自然に広がる」=小さな会社は一点集中し、商品・客層を絞る=「ランチェスター弱者必勝の戦略」(詳細は拙著「小さな会社★儲けのルール」「逆転バカ社長/天職発見」
参照)。



?人生計画書の作成と実行。経営と同じく、人生にも夢と目標。それを実現する行動計画書が必須。が、これも99%の人は立てていない。やずやの場合、同友会人脈を通じ、?とほぼ同時期にSMIという成功哲学プログラムを導入。社長と専務を始め、毎年、幹部社員を選抜し、個人と会社の夢をクロスさせた行動計画を作成、実行している。今も毎週水曜の朝6時半より「やずや」本社で実施。



?社員と業者への愛と感謝の実行。愛というと?な感じだが、やずやでは既存客への情報誌発行や手紙などのフォローは当然の他、社員へのフォローも強烈。毎週毎日、社員の誕生日を互いに祝福し、プレゼントや寄せ書きを贈り合う。 圧巻は、出入り業者への感謝。やずやでは毎月毎年、下請や取引業者を招いて感謝の集いを実行。業者からのお中元や接待はすべて辞退し、逆に業者、それも、末端のパートや単純作業員を招き、盛大なパーティをして感謝状を贈る。



■転けた人を笑うな



 以上、やずやファンでもあるエセコンサルタントらしく、独断と偏見で成功理由を上げました。多くの人は、やずや成功の理由を「酢やにんにく卵黄など、商品が当たった」「通販ブームに乗った」「あのCMや広告がうまい」と言いますが、そんな外見は誰でも真似でき、事実、やずやの物真似する会社は後を絶ちません。



 しかし、商品や広告は似ていても、やずやと他社との業績差は圧倒的です。何が違うのか。



 それは?〜?に上げたような、外からは見えない努力=「夢×戦略×感謝」の実行力。その前提には、多くの人が知らない「やずや前半生」の幾度にも渡る失敗経験が、大変な肥やしになっているのです。



 やずや創業者の矢頭宣男さんは、生前、よく言っていました。「転けた人を笑うな」。転けたということは、何かを成そうと行動を起こしていたから。が、大半の人は何もせず、傍観しているに等しい。変わるには、成長するには行動しかない。かつ行動=今まで経験してないチャレンジの9割は失敗して当然。やずやの今の通販も、その裏にある創業33年間の失敗の歴史があればこそです。

 

■九州一のあの人も失敗の連続



 なんか書いていて勝手に興奮し、「やずや」のことが長くなってしまいました。本当は15年に渡る「九州ベンチャー大学」の歴代ゲスト約150人や、拙著「逆転バカ社長」にも紹介した経営者の挫折失敗→逆転成功事例を沢山紹介しようと思ったのですが、もう紙面が無くなりました。



 この原稿を書いている最中、九州一の宅配鮨「ふく鮨本舗の三太郎」蔀(しとみ)社長が来ました。蔀さんは自衛隊特殊工作隊→マクドナルド10年勤務→経営コンサル→1994年より宅配鮨に事業転換。自衛隊仕込みのパワーと私らの師匠である竹田陽一氏の「ランチェスター弱者必勝の戦略」を徹底的に駆使し、わずか5年後の'99年には年商13億・経常利益1億と宅配鮨で九州一になりました。



 しかし、またも好事魔多し。同時期に多くの投資家から出資を受け、上場を一気に狙って5億円の設備投資+大量出店した回転鮨に大失敗。3年間の長期のウツを経て、この数年は初心に戻って勉強をし直しました。

 経営戦略や通販・ネットなどのビジネス系は元より、天命・天職・プラス思考・禅などの人間学にも参加。あらためて自分の天職は通販(=宅配鮨はチラシを撒いた反応で新規顧客を獲得+顧客管理でリピート固定客化を計る)と目覚め、通販=宅配鮨の穴を深く掘り、その延長で博多駅や空港への弁当納入+仕入力を活かした魚商品の通販に成功。年商も25億と大復活しました。



 天職は通販=宅配。これは蔀さんが13年前からやっていたこと。しかし、規模の拡大+業歴を重ねるうちに、「自分は何屋か。何でお客に役立てるのか」を見失っていたんですね。



 親友で、今も携帯電話で話したラーメン「博多一風堂」河原社長も、サラリーマンを大失敗でクビになって25歳で独立。最初は個人のバー経営から5年後にラーメンに参入。その後は居酒屋・たこ焼き・焼き肉屋・パソコン教室・浄水器販売と手を広げるも失敗の連続。天職に気づいたのは創業20年目の44歳の時で、以降はラーメン道をまっしぐらに歩み、今では年商70億と大逆転しました。



 「人生は失敗とチャレンジの連続だけど、目覚めるのは40代やね。若い時はがむしゃらに行動して失敗が普通。そしていろいろ勉強し、事業の完成は50代やね。そして、天職は今まで歩んできた人生=常に足元にあるね」で意見が一致。



■逆転するには「有恒」の努力しかない



 但し、何もせずには失敗も成功もない。行動あるのみ。が、目の前の行動と同時に、常に勉強しないといけませんね。全国を年間100回講演で廻り、地元でも大小の勉強会を年間100回ほど主催し、つくづく思うのは、ホンの一部の経営者を除くと、99%の中小零細自営業者は、月に1冊の本も読んでないし、前向きな勉強会やセミナーにも出ていません。せいぜい、地元の傷の舐め合いの同業の会合で、国の中小企業対策はなってないとか、この地域は、この業界は、最近の若い社員はダメだと愚痴を言ってばかり。ダメなのは、行動も勉強もしない経営者自身。



 まあ、この他者依存型の経営者が大半を占めるのは昔も今も変わらないし、この専門誌まで読んで勉強する人も非常に希でしょう(笑)。それでいいんです。人が生まれて必ず死ぬように、会社や店も諸行無常ですべては移り変わるのが天の摂理。大半は消えて無くならないと、後に続く人達の立つ瀬がない。



 が、自分だけは少しだけ永く生き残りたいという欲の深い人(笑)は、これは河原さんとの合い言葉ですが、日々の有恒(ゆうこう:仏教用語)=変わらないために変わり続ける努力が大事。「一風堂はいつも美味いし、接客がいいねえ」。このお客の声は、時代背景や他店との比較でのこと。現場維持の手抜きでは、時代や後発の頑張るライバルに置き去りにされる。変わらない=進化するお客の厳しい目やライバルに克つには、日々の努力と勉強しかない。



 というわけで、今後も共に切磋琢磨していきましょう。最後まで読んで頂き、有り難うございました。こんな話と事例で良ければ、全国どこでも参ります。お気軽に連絡下さい。 



栢野克己/カヤノカツミ090-3604-6735