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・2/16〜17「経営計画セミナー③」
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今、先週の某東京講演先への請求書を返送した。事前に提示された講演費+往復交通費の金額がある。講演費は固定だが、交通費は概算で出してある。それは正規の運賃。が、今回、オレは格安ホテルパックを購入したので、正規運賃より1万円安い。だから、正規運賃で請求すれば1万円儲かる。が、これは事実と違う。通常、こういう場合は差額を自分の懐に入れるのが普通らしい。サラリーマンの出張経費精算では常識か。ある有名な先生は東京-福岡の往復で10万円の請求をする。どう計算しても実際より高い(ビジネスクラスハイヤー移動だとそういうもんかな?)。



岡さん・唐鎌さん・他
オレも先方の試算通りに請求すればいいのだが、先日、一緒に講演したリフォーム業「雨漏り110番」の唐鎌社長(右端・ネクタイは岡さん・横は岡さんの愛人)も言っていたが、「正直なビジネス」が一番。



一瞬、「栢野。このまま出せば1万円儲かる。皆もやっているよ」とチラリと脳裏を横切ったが、皆がそうならオレは逆だと、今、送付した。どうでもいいことだが、オレは自分を誉めた。目先の利益より、自分にウソ着かない正直な生き様で勝負だ!







先日見返した<相田みつを物語>に似たシーンがあったので真似ただけ。彼の生き様は周囲の逆だった。そんなの当然?そうね。

同時に、相田みつをはこうも言っている。











色即是空 空即是色 

かねが人生のすべてではないが

有れば便利、無いと不便です

便利なほうがいいなあ 



にんげんだもの」より


この書は相田みつをが30代前半の超貧乏時代。世間は高度成長期で景気が良かったが、相田みつをは「従来の書とは違い、自分の言葉で自由に書く」という、スグには食えない道を選んだ。当時、相田みつをは師匠の武居老師から、道元禅師の教えを学び、いろいろ悩み考えました。


「自分のやっていることはなんだ?」


「親子4人食うためにお習字の先生をやっている。この生ぬるい生活はなんだ?このままでお前自身、心のどん底から納得できるのか?かけがえのないいのち、二度とない人生。このままで悔いはないのか?在来の形式通り、安易なやり方の書で、自分の本心は満足できるのか?」


本当は出家して僧堂生活したかったらしいが、今さら家族を捨てられない。その勇気もない。結果として具体的にやったことは、今までの書を捨て、冒頭のような文句を書くことにしたという。そのために、


1、お習字の先生をやめる。

2、書家でなくていい。

3、詩人や歌人でなくてもいい。

4、かねや世間的な名声、肩書はなくていい。

5、その代わり、素っ裸の人間として、どこまでも自分の本心、本音を書いてゆく。人間としての精神の自由だけは誰にも渡さず、固く守りながら・・・。


以上のような決意をしたのですが、現実の生活は苦しくなるばかり。だから「便利のほうがいいなあ」という言葉が出来たと。これはその頃の凡夫のため息だと。


が、かねが人生のすべてではない。「かねは有れば便利。無いと不便」。ただそれだけの話しです。


以上は、私の座右の書「いちずに一本道 いちずに一ツ事」・角川文庫で、相田みつをが話している内容。苦しい時代、オレはこの部分を何度読んだことか。


人生は一度。「本当にやりたいこと」があれば、やってみるしかない。が、99%の人はしない。今の安定した?生活を捨てるのに不安があるからだ。実際、やってみても50〜99%は失敗する。「本当にやりたいこと」は、未経験のことが多いからだ。でも、例えば物心つけば、皆が自転車に乗りたいと思う。子供の頃の「本当にやりたいこと」の一つだろう。オレもそうだったが、何度乗っても転ける。数メートル進めば足を着く。オレも西新の社宅アパートの裏の小道で練習し、コンクリートの壁に肘をこすってケガをした。血が出て痛かった。皆からも笑われた。でも、乗りたいから何度でも挑戦した。補助輪の期間を加えれば、スイスイ乗れるまで数百回はチャレンジしたのではないか。


思えば同じ様なことを、大人になってから何回チャレンジしただろうか?


年齢を重ねると、恥をかくのを恐れるようになる。自分の本心より、人の目が気になる。失敗すると笑われる。

「転けた人を笑うな」と<やずや>創業者の矢頭宣男はよく言っていた。転けるということは、動いて行動したということ。動かなければ転けない。が、進歩もない。矢頭さんは人生で、経営で何度も失敗した。職を何度も変え、独立後も転業も繰り返し、引っ越しも10年で12回はした。「お前は年賀状が来るたびに住所が変わっているとよく言われた。正直、恥ずかしかった」と、生前の1999年1月の雑談会で言っていた。オレもまったく同じ。失敗転職でコロコロ。屈辱だった。


しかし、何でも「やってみなければわからない」。何もしなければ何も変わらない。周囲に流されて生きるだけ。それはそれでいいだろう。9割はそうだ。でも、変わりたいのなら、具体的に動かねばならない。部屋でジッとして、ゲームやネットで暇つぶしでは何も変わらない。動く。それも、今までやったことのないことにチャレンジする。当然、自転車練習と同じく、何ども失敗する。転ぶ。笑われる。屈辱的だ。


が、プロ野球選手でさえ、3割バッターはわずか。平均2割5分前後だ。つまり、プロでも7割以上は失敗する。世界のホームラン王・王貞治ベーブルースは、同時に三振の数も世界一クラス。アマなら、プロと対戦したら99%は三振だろう。いや、大半は100%三振=失敗だ。それは誰でも最初はそうだ。でも、ああなりたいと思うなら、まずは家や公園で素振りだろう。次ぎにバッティグセンターや仲間内での練習。徐々に徐々に腕を磨き、中学・高校・大学と10年以上の練習を経て、やっとプロへの入り口に立てる。


勉強でもスポーツでも仕事でも趣味でも、最初から3割バッター(=常に7割は失敗)はいない。だから、失敗を恐れず・・・・というか、最初のチャレンジの時期は失敗100%が当たり前なのだから、一度や二度の挫折で諦めないで欲しい。


が、かくいうオレはどうかというと、仕事面ではスグに諦めてきた人生だった。ヤマハ発動機9ヶ月・リクルート2年10ヶ月・IBMリース2年半・チラシ宅配のミッド2年・最初の起業(無料職業相談業)半年・ビジネス社(出版社)半年・アド通信社(広告代理店)2年11ヶ月と、3年以上続いた会社はなかった。その退社理由の大半は、ダメ社員でウツ退職。


1995年〜今の2回目の起業後も、旧友や地元の人は知っているが、2002年まではウツやスランプばかりでダメな時期が多かった。実際に5回前後、ウツで通院しました。が、治ったのは薬ではありません。それは瞬時の気休め。原因は本業の仕事不振・天職への迷い=そういう時期は事務所に閉じこもるか、出ても公園や図書館でほとんどニート状態。何もしてなかったですね。行動は。


ただ、本は沢山読みました。自分が興味ある経営者のセミナーや勉強会に出たり、時には個別にアポとって、どうやって苦況を乗り越えたのか、聞きに行きました。個別では難しい場合、自分が息絶え絶えでやっていた「ベンチャー大学」に講師に来てもらい、皆の力を借りて一緒に話しを聞きました。何か一つでもいい。自分が這い上がるヒントをもらえるのではないかと。


この迷っている時期は、仕事の新規開拓もおざなりで、当然、売上も利益も少なく、生活は極限まで切り詰め、外食も最小限で、金のかかる飲み会もほとんど行きませんでした。車は中古の15年もの。今も。服もほとんど買ってません。他のいわゆる贅沢品は一切無し。心底追い込まれた2001年頃、朝4時起きで新聞配達もしました。


3ヶ月で挫折しましたが、40歳過ぎて、しかも、昼間は月に1回程度でしたが、講演講師(今と同じく他人の事例を話すだけ)もたまにしている身分として、なんとも言えない屈辱感と、ここまでやっているんだから、何か奇跡が起きるんではと、いつも配達終わった朝6時過ぎ、博多湾に夜明けの朝日が昇るのを見つめながら、まさに手を合わせて祈ってました。神様、オレにもチャンスを下さい。奇跡が起きて下さい。


何のために生きているのか、教えて下さい。私の天職は何なのか?何をすればいいのか?


そんな状態が2001年12月まで続き、追い込まれた私は、ある賭けに出たのです。それは、1998年から毎年年末になる度に、来年の夢を書いてはスグに2ヶ月で挫折。でもまた、年末が近づき、来年の夢目標をとりあえず書く会に出る度、やはり出てくる「あの夢」でした。それは当時、実現可能性ははっきり言って、ほとんどないと思ってました。でも、わずかな可能性はある。かも。


今も鮮明に覚えています。SMIサクセスパワー福岡で「人生6大分野の夢・目標設定」をし、ランチェスター経営(株)で「竹田ビジネスモデル・弱者の8大経営戦略」を書き上げ(共にA4一枚)、最後に中小企業家同友会で行われた竹田先生の「経営計画セミナー」に参加。同じように一枚の目標を書き終え、皆の前で発表し、「でも、そんなの無理だよな」とそそくさと帰ろうとしました。


エレベーターを降りたところで、竹田先生、南王の永野さん、ローズルームの青野さんたちの後ろ姿に遭遇。2次会に行く様子でした。でも、そんな気合もなく、いったんは帰ろうとしました。


でも、なんか寂しいな。やっぱ合流しようかと、偶然を装って姿を見せ、案の定「栢野さん、飲みに行こう。打ち上げたい!」と誘っていただき、金もなく迷ったのですが、勢いで参加。その後、段々と酔いが回り、「よし!2002年の5月にはOOします!」「おー、いいねえ!栢野さんならやれる!頑張って!」と、当然、皆もお世辞だったと思うのですが、私の脳にスイッチが入りました。確か、その場は竹田先生の奢りでした(毎度、甘えている自分が卑しかったですね。今もですが)。


で、スグに年末からその夢の実現に向けて、日々作業を始めたのですが、それは1998年から毎年年末にはやっていたのですが、その時も同じく2月には挫折。「やっぱ、オレには無理だよなあ」と思考停止の鬱状態になりました。


ところがふと、1998年からの、途中で挫折中断していた仕事を集めてみると、なんと!「夢のカタチ」に近づいているではありませんか。「実現」ではないが「カタチ」にはなっている。あとは商品に近いカタチに仕上げして、売り込むだけだ。で、実際、2002年の3月から、その「夢のカタチ」を35社へ売り込みしました。郵送で。


しかし、本当にその時の気持を言えば、「カタチには仕上げたけど、採用してくれる可能性は10%もないよなあ」と、希望は持てませんでした。事実、次から次へと断られ、34社からは不採用か音信不通。東京のある会社の田中さんという方からは「個人的には面白いけど、地方の事例じゃねえ。売れないねえ。残念だけど無理ですね」。私もそう思いました。東京の有名な大企業のアレならまだ可能性はあるかもだが、福岡の、それも中小零細企業のアレではダメだなと。


そして、一縷の望みを抱き、私は地元のOOOへその夢のカタチを持ち込み、何とか商品化してもらえないかと、そこには電話して会いに行きました。応対してくれたのは、社員3名ほどの零細企業。申し訳ないが、ここもダメだな。万が一、商品化が実現しても、もらえる代金は30万円前後。細長いペンシルビルの階段を下りながら、今後、どうしよう。何か食うための仕事をせねばと、もう一度、昔取った杵柄の広告代理業・新規開拓の初歩である、職安に行って求人票を調べ、小さな求人広告を出してくれそうな会社に電話したり、飛び込みを繰り返しました。


しかし、昔は「いらない!」と言われてもアタックしていた気持ちは2日と持たず、「43歳になって飛び込み営業なんて可愛げもないし、屈辱的だし、ライバルは大手の20代のピチピチ営業マンだし、勝ち目はないよな」と悄げる日々。


その数週間後、元々、妻が小学低学年の子供とタイへ格安チケットで行くことになっており、金はないけどヤケクソで私も急きょ参加。海外に行けば何かあるかもと思ったんですが、何もなく、綺麗な海も「その時のあなたは本当にウジウジしてたわね」でうわの空。サメット島の夜に見た流れ星に願いをかけたのですが、奇跡は何も起きませんでした。


で、落ち込んだまま帰国。さあ、これからどうしようと、相変わらずウジウジ鬱状態でした・・・・つづく。



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